愛って何?
この前、何の本か忘れてしまったんだけど、超絶共感した愛の話があったので書き綴りたいと思います!
筆者はカウンセラー?的な立場で、筆者のところには相談に来る人が多くいました。
その中の一人に、「妻を愛せなくなってしまったんです」と相談に来る男性がいました。
その男性に対して筆者は伝えました。「そうですか、分かりました。解決策をお教えしましょう。奥さんを愛してください。」と。
男性は困惑します。「え?私の話聞いててくれましたか?妻を愛せなくて困っているんです!」
筆者は再度伝えます。「そうですよね。だから愛してくださいとお伝え申し上げたのです。」
さて、上記のやり取りで筆者の意図がお分かりいただけましたか?
これは、「愛」の捉え方が、相談に来た男性と筆者で異なっているのです。
相談に来た男性は愛を心の状態で捉えています。心の状態は思ってもすぐ変えられるものではありませんよね。だから男性も苦しんでいるんだと思います。
一方で筆者は愛を動作、行動と捉えているのです。このケースでいえば、奥さんのために家事を手伝う。奥さんを褒める。奥さんと笑顔で会話するなど行動してくださいってことです。
心は変えられなくても行動は変えられます。
筆者は行動が変われば、心も変わることを伝えたかったのではないでしょうか。
皆さんも、大切な人を「愛」してみると、さらに良好な関係が気づけるかもしれませんね!
褒めること
今、私はあるコミュニティに属しており、そこで宿題いただいた。
それは5人以上の人から自分の才能、長所、良いところを聞いてくるというものだ。
そこで私は色々な人にSNSを駆使して聞いてみた。そうすると、みんな色々意見を出してくれた。褒めてくれた。
その時、私はすっごく嬉しい気持ちになった。だから、極力相手の良いところもお伝えさせていただいた。
そうすると、相手も照れながらも喜んでいただいた。
褒めるということは、なぜか照れ臭く言いづらいことだけど、ちゃんとまっすぐ投げれば、相手に届くし、良好なコミュニケーションを気づけることを今回学んだ。
褒めるって素晴らしい!
是非ワークとして、自分の長所、才能、良いところを人に聞いてみてはいかがだろうか?
自分のことが好きですか?
最近、良い学びを得たので備忘も兼ねて共有したいと思います。
さて、タイトルに書いた通り、皆さんは自分のことが好きですか?
言い換えれば自分のことを認めてあげていますか?つまり自分を承認してますか?
承認には大きく分けて3つあるそうです。
1つ目が成果承認。できたことについて褒めてあげることです。例えば、テストで100点取った、テニスの試合で勝ったときは誰でも自分すごい!と褒めますよね。
2つ目が行動承認。行動したことに関して褒めてあげることです。例えば、今日は勉強を5時間して、50ページまで終わらせると決めたとします。できたときは、自分頑張ったなと嬉しくて褒めると思います。
ここまでは皆さん実際していることかと思われます。
そして肝心の3つ目の承認が意識承認です。意識したことにたいして褒めてあげることです。先の例でいえば、勉強を5時間する。と決めたこと自体素晴らしいことと考えます。そして、そんなことを出来た自分素敵!と褒めるのです。
では、なぜ意識承認が大切なのでしょうか?
例えば、良くあるこんな状況だったらどうでしょうか?
母「宿題はやったの?」
子供「まだやってないよ、今やろうと思ってたところ!」
母「早くやりなさい!思うだけじゃやってないのと同じ!」
さて、この時の子供の気持ちはどうでしょうか?
「ちぇ、怒られちゃった。やろうと思ってたのにやる気なくなっちゃったなぁ。」という感情になると思います。
では、おかあさんのかける言葉が承認に溢れていたとしたらどうですか?
母「やろうと思っていたの!すごいね!人はやろうと思ったことじゃないとやらないもの。行動は思うところから始まるものよ。思うことにこそ、お母さん価値があると思うな。」
さて、この時の子供の気持ちはどうでしょうか?
「そっかあ、思っただけでも偉いのか。僕って偉いのか。なんだかやる気が出てきたな。宿題やっちゃおうかなあ」なんて思うのではないでしょうか。
上で挙げた例は、極端な例かもしれません。
ここで理解していただきたいことは、焦点をどこに当てることでモチベーションがどうなったかです。
行動しなかったことに焦点を当てて叱責するか
意識したことに焦点を当てて褒めるかです。
前者のモチベーションは下がり、後者はあがるはずです。
これは、他人との関係のみならず、自分の気持ちでも同様に当てはまります。
行動できなかった自分を責めるか
やろうと思った自分を褒めるのか
さて、ここまで読んでいただければ、意識承認の大切さをご理解いただけたのではないでしょうか?
是非、やろうと思った自分を褒めてみてはいかがでしょうか?
山ちゃんブログまた次回!
いじめってなくなる?
学校教育の中でのいじめについて考えてみたことがある。
特に今回焦点を当てたいのは、肉体的ないじめ、つまり暴力によるいじめだ。
結論から言うと、暴力は傷害罪や暴行罪に値するので、もはや犯罪なので、警察に届け出た方がいいということだ。
もちろん、証拠なしにというわけではない。一度の暴力では難しいと思う。ただいじめはエスカレートし、繰り返される傾向があるため、証拠を集めるのは難しくはないのではないだろうか。例えば、体のあざを写真に収めておく、いじめられている時にボイスレコーダーを取っておくなどだ。
この時、ポイントは学校の先生を経由しないことだ。自分が教師の立場になって考えて見てほしい。いじめを生徒から打ち明けられたとして、立場が弱くなっている教師が果たして解決できるだろうか?
それよりも、警察に訴え、司法に委ねることで、いじめっこはいじめられっこをやばい奴と思い、それ以上手を出してこないのではないだろうか?
もちろん、そんな勇気は出せないという子供もたくさんいることは重々承知している。一つの解決策として今回は案を提示してみた。
それでは山ちゃんブログまた次回!
わたしとはだれか
わたしとはだれか。
本を読んでいて、このような問いがあった。
転じて個性とは何かを考えてみた。
個性とは感性に比例して強くなっていく概念ではないだろうか。
人間には五感と呼ばれるものがある。視覚、聴覚、触覚などだ。これらはどれも自分より外の情報を得るためにあるものだ。
捉え方を変えると、自分とそれ以外を区別するためにあるのではないだろうか。
例えば、他の人を見ることで、自分のすがた、形の違いを認識できる。他にも、他人の話を聞くことで、自分との考えの違いを知ることができる。
つまり、感性が高まれば高まるほど、自分以外の外界と自分との違いの認識の量が増え、自分という存在がくっきりと浮き彫りになってくる。
そう考えると、わたしとはなにかを知りたいならば、より多くの考えや情報を得ていく中で、自分はどのような考えをするのか、どのような価値観があるのかを意識的に模索していくことで、発見できるのではないだろうか。
今の時代、スピードに追われ、忙しない時代になっている中で、自分と向き合う機会は少なくなっているのではないだろうか。
一度立ち止まって、自分とはどんな人間なのか、本など情報を取得していく中で、考えてみるのも人生を豊かにする一つの方法かもしれない。
託すということを考える会
世の中には、選択を託す人がいる。
今日あった例を紹介しよう。飛行機の預ける荷物のチェックする検査員が、私の前に検査を受けていた男性こう聞いた。「シールお貼りしてもよろしいですか?」 そうすると、男性は少し意地悪だったのか、貼らないとどうなるか尋ねた。検査員は答えた。貼らなければ荷物をお預かりできませんと。男性は、じゃあ貼る選択肢しかもとからないじゃないか!と少し怒っていた。だから初めからシールお貼りしますね。と一言かけて貼ればいいと思う。
別の例を紹介しよう。これは誰もが言ったことあるのではないだろうか?
トイレ行ってきていい?
これは完全にやってはいけない。大半の人がいいよと答えるのだが、私みたいに性格の悪い人に聞こうものなら、ダメと答える。そうすると、トイレに行けなくなってしまう。実際彼女にそう答えたら、それ以降、トイレに行ってくるねと質問されなくなってしまったのは少し悲しいことではあるが。
話をまとめよう。何か決まりきった前提がある場合には、質問形式ではなく、断定して話した方が偏屈な人間にも対応できるんじゃないかって話だ。まあ逆に、勝手にシール貼るな!とか俺の許可なくトイレいくな!っていう偏屈な人がいたら、難しい問題だが。
ということで山ちゃんオフィシャルブログまた次回!
自画自賛協会
我が家には自画自賛協会という組織が存在する。
どんな協会かというと、自らを褒め称えることを主眼に置く協会である。
会長は母親が務めている。兄と私は会員だ。
まだ会員レベルだと自画自賛レベルはどうしても低い。
俺って天才。とか、なんでこんなに仕事できちゃうんだろう。とかそれくらいのレベルだ。
だが母は子供がそんなことを言っていると、「本当にすごいね、誰がそんな天才産んじゃったのかしら」と、子供を褒める体を醸しつつ、自らもしっかり褒める俗に二重褒めという高等技術を有している。
はたから見たらアホな家族だなと思われるかもしれない。はたから見なくてもアホな家族だが。
だが最近学んだ中で、意外と良い習慣だったのではないかと思う。
ガンジーの名言にこんな言葉がある。
人間は、その人の思考の産物にすぎない。
人は思っている通りになる。
つまり、自分はバカでドジでマヌケで救いようがないと思えば、その通りの人間になるし、逆に自分は何でも出来てどんなことも諦めない人間だと思えばそうなるのだ。
そう思ったらそうなるのだ。羽生ゆずるや本田圭佑、イチローなどのスポーツ選手も自分の未来を信じていたから現在のように大成できたのではなかろうか。
皆さんも自画自賛協会に入って自分を褒めよう。